今、人類の長い歴史の中で初めて、グリーン水素が一次エネルギーとなる“水素社会”の実現可能性が高まっています。再生可能エネルギー由来の電力によって作られるグリーン水素は、大規模発電や熱供給、輸送用燃料や産業用原料など、様々な用途で大きなポテンシャルを発揮する可能性を秘めています。ゴールドマン・サックスの推計によると、グリーン水素が世界のエネルギー源に占める割合は2050年までに25%へ増加し、市場規模も10兆ドル(約1138兆円)に拡大 。PWCも、水素が同年までに石油104億バレル分(パンデミック前の石油生産量の約37%)に相当する割合を占め、サプライチェーン全体で約40万人分の雇用を創出すると予測しています 。また水素評議会(Hydrogen Council)によると、グリーン水素の導入によって同年までに削減可能なCO2は、現在の排出量の18%に上ります。水素はネットゼロエミッションの実現に極めて大きな役割を果たすエネルギーと言えるでしょう。
世界は、これまでも様々な形で水素の活用を試みてきました。例えば、燃料電池自動車(FCV)が初めて米国・日本・ヨーロッパの道路を走ったのは20年以上前のことですが、導入・インフラ整備にまつわる莫大なコストは普及の大きな壁となってきました。しかし今、東レをはじめとする企業の様々な取り組みが、こうした状況に変革の機運をもたらしています。“素材には、社会を変える力がある”という信念のもと、東レは数多くの革新的素材を世に送り出してきました。グリーン水素の製造から、輸送・貯蔵・利用まで、東レの取り組みは水素社会へのシフトにも大きく貢献しています。
進化する燃料電池テクノロジー
水素社会の実現に向けた東レの貢献は、FCV開発の分野にも広がっています。燃料電池用の電極基材や、移動中に水素を貯蔵する高圧タンク用の高強度炭素繊維やライナー樹脂はその一例です。またドイツの子会社Greenerityも同分野のリーディングカンパニーとして、水素燃料電池の中核部品である触媒担持膜(CCM)や膜電極接合体(MEA)を供給しています。
同社の先駆的な電解質膜テクノロジーは、水素燃料電池に適した特長を備えており、FCV実用化に向けた“ゲームチェンジャー”となる可能性を秘めています。東レ 常任顧問 経営企画室担当の出口雄吉氏によると、「私たちの開発した炭化水素系電解質膜はプロトン伝導性が高く、特に高湿度条件下では、既存のフッ素系電解質膜の約2倍の伝導性を実現」しています。
「また東レの電解質膜はガス透過性が非常に低いため、水素デバイスの効率・安全性が大きく向上しますし、機械的強度や高温での耐久性にも優れています。」東レの燃料電池用膜が従来型製品よりも高い効率を誇るのはそのためです。またカーボンファイバー製の水素タンクは、FCVの軽量化と燃費向上にも役立っています。
産業分野での大規模活用に向けて
東レは炭化水素系電解質膜テクノロジーの優れた応用性に着目し、水の電気分解による水素の製造や、圧縮水素の貯蔵・輸送への活用を開始しました。
水素製造の分野では、高分子電解質膜(PEM)型の水電解が主流となりつつあります。その大きな要因となっているのは、PEMの高い汎用性と性能です。電解質膜はその性能を決定づける主要部材ですが、東レが開発した炭化水素系電解質膜は、従来のフッ素系電解質膜と比べて2倍の電流密度と、膜面積あたり2倍の水素発生量を実現しており、PEM型水電解装置の高性能化が期待できます。
「実証機の評価では、電流密度の増加が装置コストの削減につながること、そして膜抵抗とガス透過率の減少により装置の電解効率・安全性・稼働率を向上できることが確認されました。こうした特性を活かせば、将来的にグリーン水素の製造コストを大幅に削減できるでしょう」
東レ 常任顧問 経営企画室担当
出口雄吉氏
東レはこのテクノロジーのさらなる進化によって、グリーン水素の用途拡大と水電解装置の製造コスト削減を実現できると考えています。「実証機の評価では、電流密度の増加が装置コストの削減につながること、そして膜抵抗とガス透過率の減少により装置の電解効率・安全性・稼働率を向上できることが確認されました。こうした特性を活かせば、将来的にグリーン水素の製造コストを大幅に削減できるでしょう」と出口氏は意気込みを語っています。
パイロットとプロトタイプ
水の電気分解を利用した大規模発電、熱・輸送用燃料の供給を産業レベルで実現することは、これまで困難とされてきました。特に大きな壁となってきたのは、製造プロセスのコスト・実現性の問題です。
製造コストという課題を克服するために東レが考案したのは、シーメンス・エナジーとの提携を進め、東レの炭化水素系電解質膜とシーメンス・エナジーのPEM型水電解スタックシステム“Elyzer”を組み合わせるというソリューションです。スタックシステムの大型化・モジュール化に加えて、東レの炭化水素系電解質膜を使用することで、低コストな産業用水電解システムの開発を後押ししています。
実現性という課題の解消に向けた鍵となるのは、“セクターカップリング”というコンセプトです。電力・非電力の両セクターでエネルギー供給・利用のシームレスな統合を進め、エネルギーシステムの効率化とCO2削減を図るこのコンセプトに基づき、東レなど8つのパートナー企業・組織は山梨県で官民パートナーシップ・プロジェクトを進めています。同プロジェクトでは、再生可能エネルギーを需要地で水素エネルギーに変換するだけでなく、熱源や輸送用燃料、様々な産業用エネルギーとしての活用も可能というグリーン水素の特長を活かした “Power-to-gas(P2G)システム”を開発。炭素水素系電解質膜を用いたこの大規模水電解システムは、今後4年間で工場などの大規模施設に導入され、水素ボイラーを通じた熱の脱炭素化に活用される計画です。
また東レと加地テックは P2Gプロジェクトの一環として、電気化学式圧縮機を用いた日本発の実証実験用水素充填ステーションを開発しました 。新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の助成を受け、東レの炭化水素系電解質膜を搭載した電気化学式水素ポンプシステムを採用。水素の酸化還元反応を利用し、再生可能エネルギー由来電力で水素を圧縮します。この革新的なシステムは、19.6メガパスカルに圧縮された水素を製造可能で、山梨県甲府市の電力貯蔵技術研究サイトに設置されています。
循環型経済を目指して
東レの強みである開拓者精神は、“カーボンリサイクル”分野の先進的研究でも発揮されています。焼却・火力発電などで排出されるCO2を回収し、水素と反応させるなどして化学品・ガスに変換する試みはその一例です。この研究を進める上で欠かせないのが、世界で初めてナノサイズの連続構造を実現した多孔質炭素繊維です。2019年に発表されたその技術の最新版では、従来の無機系CO2分離膜モジュールと比べて5倍の効果があり、プロセスの高速化とコスト削減を実現しました。
「カーボンリサイクルの取り組みにおいて、水素が果たす役割は極めて重要です。
東レ 常任顧問 経営企画室担当
出口雄吉氏
「カーボンリサイクルの取り組みにおいて、水素が果たす役割は極めて重要です。例えば、化学的に分解して有用な物質を再利用する際の反応に使われますし、回収したCO2と結合させることで、メタンなど様々な化学物質を生成することができます」と語るのは出口氏。「カーボンリサイクルを可能にする化学・バイオプロセスは、東レが化学企業として長年にわたり蓄積してきた技術の延長線上にあり、ゼロカーボン社会の実現に貢献する大きなチャンスだと考えています。」
技術・素材の極限を追求する東レの取り組みによって、グリーン水素の製造・輸送・貯蔵・利用におけるコスト競争力は急速に高まっています。こうしたテクノロジーの進化により、真の意味での循環型経済は現実のものとなりつつあるのです。
グリーン水素の普及を進める上で、今後10年は極めて重要な意味を持ちます。その鍵を握るのは、生産・流通面における競合エネルギーとのコスト競争力強化、そしてセクターカップリングやカーボンリサイクルを通じた効率性向上と環境負荷の軽減です。東レはこれからも“素材の持つ力”を活用してこうした課題の克服に貢献するだけでなく、カーボンニュートラルの達成、環境問題の解消や、安全かつ衛生的な生活環境の実現へ積極的に貢献していきたいと考えています。