水素社会の実現可能性が高まる理由

水素協議会 エグゼクティブ・ディレクター Daryl Wilson

水素燃料の将来的ポテンシャルに疑問を持つ専門家は、依然として少なくない。テクノロジー・コスト面の課題は解消されておらず、普及の大きな足かせとなっている。特に再生可能エネルギーを利用して製造されるグリーン水素はコストが非常に高い。そしてこの製造法に不可欠な電解槽の大規模実験はほとんど行われていないのが現状だ。

しかし水素エネルギーの懐疑論者は、3つの重大なポイントを見落としている。その一つ目は、気候変動対策の重要性の高まりだ。人類が今後生き残りを図るためには、CO2削減からさらに踏み込んだ“ゼロエミッション”の実現が求められる。二つ目は、そのために再生可能エネルギーへの全面的移行が避けられないことだ。そして三つ目は、水素が再生可能エネルギーの世界的普及の鍵を握ることだ。

もう少し詳しく説明することにしよう。

再生可能エネルギーは、自然界のエネルギーであるために無尽蔵で枯渇の心配がほとんどない。しかし太陽光や風が強い時期と需要が高まる時期が必ずしも一致しないなど、需給バランスの面で課題を抱えている。また送電距離に比例して、エネルギー損失率も高まる。しかし再生可能エネルギーをグリーン水素の製造に利用すれば、エネルギーを必要な時に必要な場所へ移動できるようになるのだ。

再生可能エネルギーがもたらす変革

現在の世界では、エネルギーの問題を供給・消費という二つの分野に分けて考えることが多い。原油から生成される液体燃料が人・モノの輸送を担い、ガスは家や建物の暖房に使われる。そして化石燃料・原子力・再生可能エネルギーなどは、その他の分野で電力を供給するといった具合だ。

しかし、こうした既成概念は今後大きく変わらざるを得ない。気候変動を克服するためには、あらゆるエネルギーを太陽光・風力・水素、そして場合によっては原子力などの再生可能エネルギーで賄い、それらを貯蓄・移送する手段として水素が有効な手段となる。

変革の第一段階では、再生可能エネルギーが化石燃料に取って代わる。そして電気自動車に見られるように、電気が他の動力源に変わって徐々に普及する。

水素が真価を発揮するのは、この電気を世界各地へ長距離輸送する必要が生じた時だ。例えばサハラ砂漠の太陽光発電で作られた水素が、パイプラインを通じて北アフリカからヨーロッパやオーストラリアに送電され、その後日本へ船で輸送される。そして輸出先の国々で、車など移動手段の燃料や産業向けの原料として使われる。

サハラ

北アフリカ

オーストラリア

日本

水素が既存エネルギーと根本的に異なるのは、再生可能エネルギーの長距離輸送を可能にするなど、用途が多岐にわたる点だ。30〜40年(あるいは70年)前に水素の実用化を試みた研究者が念頭に置いていたのは、航空機の動力源など限定的な利用法だった。しかし世界では既に安価な燃料が広く普及しており、厳しい競争を強いられた。これまで水素が普及しなかった大きな理由はそこにある。

しかし今、水素の重要性を高めているのはこうした特定の目的ではない。今後不可避な再生可能エネルギー革命の牽引役として、多様な役割が期待されているのだ。

グリーンな未来

数十年前、水素はガソリンの代替物として語られることが殆どであった。しかし今日、脱炭素社会を目指す多くの人にとって、グリーンな未来を具現化させる鍵となるのが水素だと考えられている。水素はエネルギーの生産、輸送、活用のすべての面で大きなポテンシャルを持っているからだ。

再生可能エネルギーがもたらす変革

これは決して希望的観測などではない。世界では30カ国以上が、CO2削減からさらに踏み込んだ“ネットゼロ”実現への道筋を示している。例えば英国・フランスは2050年まで、スウェーデンは2045年までのネットゼロ達成を法制化しており、オーストラリア・中国も政策文書という形で取り組みへのコミットを示した。

30か国以上 「ゼロ排出」を検討している政府の数
16倍 2030年までに水素エネルギーの研究に投下される投資資金の増加率
760億ドル 水素「製品」に世界的に充てられている資金
2.29ドル~2.81ドル グリーン水素を1キロ生産する価格(2030まで)

そして多くの国々は、代替燃料としてだけでなく、エネルギー輸送の手段として水素が持つポテンシャルに注目している。

世界各国の政府は現在、水素関連プロジェクトに総額760億ドル(約8.4兆円)規模の投資を進めている。単一プロジェクトとして最大規模の投資(194.5億ドル[約2.2兆円])を行っているのは、再生可能エネルギーの発電量が伸び悩む日本だ。同国はオーストラリアから大量の水素を輸入することに合意。世界有数のエネルギー消費国として水素の普及を進め、再生可能エネルギーの活用を拡大させる意向だ。

こうしたプロジェクトへの投資は、変革の大きな推進力となっている。水素協議会とマッキンゼーが今年1月に公開した年次報告書『Hydrogen Insights』によると、2021年初頭までに発表された大規模水素プロジェクトは228に上り、7月までにその数は359に増加した。

つまり、世界でこれまでに明らかにされた大規模プロジェクトの約3分の1が、2021年前半に発表されたことになる。

加速する企業の取り組み

政府の投資だけで変革を実現することは難しい。しかし民間セクターによる投資拡大や、技術的ブレークスルーを促す要因となることは確かだ。また過去最大規模のグリーン水素開発プロジェクトや“規模の経済”の実現、クリーンエネルギーの低コスト化にも重要な役割を果たすだろう。

過去数十年間に再生可能エネルギー分野で生じたのは、まさにこうした相乗効果だ。テクノロジー分野への投資とプロジェクト規模の確保によって、太陽光・風力の発電コストは徐々に下がり、化石燃料と同等、地域の気象条件によってはそれを上回る価格競争力を実現している。

水素テクノロジーの研究開発ブームが最後に見られたのは1990年代のことだが、当時は市場がほぼ存在せず、取り組みを後押しする企業の数も限られていた。しかし水素テクノロジーを取り巻く環境は、現在大きく変わっている。水素協議会の会員企業による投資は急速に拡大しており、2025年時点で2019年の6倍、2030年時点で16倍に増加する見込みだ。

またゼロエミッション達成を目標としていない国々でも、水素への移行を検討する企業は増えている。多くの企業は、厳格な削減目標を掲げる国への輸出を見据え、世界の動きを注視しているからだ。

投資の拡大を受け、グリーン水素の製造コストはすでに低下し始めている。オーストラリア政府の委託を受け2016年に作成された報告書は、再生可能エネルギーを利用した水素の製造コストが、2030年までに1kgあたり9.1ドルまで下がると予測した。しかし同国政府が今年新たに発表した報告書は、推定価格を2.29〜2.81ドルとしている。つまり4年前の予測値の4分の1まで低下しているのだ。

水素を世界規模で普及させるためには、様々な課題を克服する必要がある。依然としてコストは高く、さらなる技術的進化も欠かせない。しかし投資拡大によってイノベーションが進めば、こうした課題は克服可能だ。

既にその道筋は見えており、各国政府・企業も積極的な取り組みを推進している。

過去数十年を通じて再生可能エネルギー分野が経験したように、実用化の可能性は今後着実に高まっていくだろう。

Daryl Wilson氏は、多様な産業によるグローバルなイニシアチブ 水素協議会(Hydrogen Council)のエグゼクティブ・ディレクター。燃料電池・電解槽テクノロジー企業HydrogenicsのCEOを務めた他、トヨタ自動車、Dofascoで様々な役職を歴任するなど、これまで数十年にわたり環境・サステナビリティの分野で活動を続けている。